荒地の恋 |
北村太郎も田村隆一もそしてねじめ正一も、不勉強でよくわからない状態で手にとりました。
その時代、昭和初期に生まれ戦争に行き、そして戦後の時代を作った人たち。 彼らの中には今の時代に生きている我々より、情熱やあきらめやデカダンスや粘り強さが ある。そして生きることに対する態度が違うと思うのだ。 これは詩人であり社会人であった北村だけが持っているものではなく、おそらくその時代の 色として皆が持っていたものだと思うのである。 53歳で妻以外に恋をして、でもその一途な情熱はこの小説からは熱くは伝わってこない。 また、妻に対してのおもいやりはなく、20年も一緒にいた年月は意味がないのだと思い 知らされる。「人の気持ちは変わっていくものだ」 その後に繰り広げられる北村の後半の人生は、詩というよりは、翻訳と生活が中心なものに なっていく。 それでも彼は人生に淡々と立ち向かい、日々をすごしていく。 明子との出会い、阿子との出会い。全てがすばらしく、彼の生活を彩っていくが、でも淡々と すごしていくのだ。 だがこの生活の中から彼は詩を生み出していく。 これが不思議なのだ。 詩人は詩人としての生活や思索があるわけではないのか? 我々とは違う生活や人生を通してあの詩が生まれるわけではないのか? 人生で与えられている時間は全ての人に平等である。 その中で何を生み出すかは全ての人に与えられた自由であり、彼らはたまたま詩であったの だと。 作者の渾身の情熱が伝わるすばらしい作品。語り口もすばらしい。 |
落合博満 変人の研究 |
その口から発せられる言葉の意味を思わず考えてしまう野球人の数は少ない。現役選手ではイチローが数少ない一人だが、インタビューを見ていると、彼は簡単に説明できることをわざわざ難しくかつ遠回しに説明するので息苦しさみたいなものを感じてしまう。そんなイチローの対極に存在するのが落合博満なのだと思う。
彼の口から発せられる単語は簡単だ。センテンスも簡潔で“表面的な”意味はすぐに理解できる。しかし、その発言を改めて考えてみると、物事(野球)の本質を突いていることに気付かされる。スポーツライターと呼ばれる人達以外の作家がイチローの言葉をあまり取り上げないのはそこに理由があるような気がする。 元巨人ファンでありかつ現役長嶋信者でもある詩人兼作家の著者が、野球人落合の野球感だけではなく、彼の発する言葉に惹かれるのは当然なのだろう。 この本は、江夏豊、赤瀬川原平、豊田泰光、富士真奈美、高橋春男と著者の対談の章、そして、数々の落合語録を著者の視点で解説した章という構成になっている。落合語録の解説が非常におもしろかった。語録をまとめて読むと、「哲学的ではない哲学」というおかしな言葉が頭に浮かんできた。 著者は長嶋信者ではあるが、まだ落合に対してはファンである。信者になるまでは至っていない。しかしこれからも信者にはならないだろう。落合博満に信者になることを許さない雰囲気やオーラが漂っているからだ。ファンにはなれるかもしれないが信者になるまでのめり込めない。それが落合博満だと思う。 対談の人選も含め、この本は中日あるいは落合ファン向けではないという指摘があるが、それが逆にこの本のおもしろさを表すことになっている。しかも、著者はスポーツライターではなく言葉を操る詩人だ。純粋な野球ファンの側面も持っているだろうが、そんな人物が単純な落合賛歌的な一冊を書くはずがない。 |