檸檬 (新潮文庫) |
日本の文学の中でも もっとも「神経」に訴えてくる作者であると思っている。晩年の芥川龍之介も 同様の趣であったが 梶井基次郎の場合には それに 独自の「美学」が付け加わり 物狂おしく絢爛たる世界が繰り広げられる。 こういう作者は やはり長編は書けないのだろうなと思ってしまう。資質的には 短編小説というよりは 長編散文詩という位置付けの方が正しいのではないかと思う。 それにしても 時として文学の才能は その人を磨耗させると思わざるを得ない。梶井基次郎も いわば夭折したわけだが その死因が結核であったのはたまたまであり 本質的には 彼の文学が彼を食い殺したのではないかと思わせる。それほど 切れ味のある作品であり その刃が書いている本人に向いているかのような 妖気に満ちている。 |
梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫) |
「過古」について書こう。この作品で思い浮かべるのは、二人の作家の二つの作品だ。一人は芥川龍之介で、「蜃気楼」。もう一人は太宰治で、「雪の夜の話」。
「蜃気楼」も、「過古」も、暗闇の中に光る、かすかな光りが印象に残る話だ。「蜃気楼」の世界は、私が生きている世界に似ている。これはあくまで〈たとえばなし〉である。私はいつも、真っ暗闇の中にいる。人に何か聞かれる。私は何か答えようとして、言葉(それは、単語だ)を捜す。暗いから、マッチに火をともす。このとき、もし、風が吹く(つまり、何か外からの刺激を受ける、たとえば、電話が鳴る、とかする)と、私は困る。ただでさえ、私は言葉を見つけるのが遅いのである。そのうえ、何か外から刺激があったりしようものなら、マッチの火は消える。したがって、私が捜していた言葉が何なのか、私には見えなくなってしまう。暗闇のなかでは、一本のマッチの光さえ、救いとなるのだ。 「雪の夜の話」には、難破した若い水夫の網膜に、燈台守一家の団欒の光景が写っていた、という話が出てくる。「過古」には、燃え尽きたマッチの火が、消えてもなお、しばらく主人公の目に残像として残った、という一節がある。芥川、梶井、太宰はマッチと目とを介してつながっているのである。してみると三人は、かすかな光を守り続けた作家たち、と言えるのかもしれない。 |